【コラム第57回】 自然との共生

 経営者であると同時に神主でもある私には、「自然崇拝」の考え方が根付いています。自然崇拝というのは、自然物や自然現象を神格化して崇拝したり、畏敬の念を持って敬うことです。
 自然崇拝は特別なものでなく、どこの世界でも古くから見られる最も基本的な信仰の形です。こんなふうに書くと、どこか厳めしい印象を与えるかもしれません。しかし、神格化するかどうかは別にして、自然の中にいるとなんとなく安心したり、自然物や自然現象に感動したり畏敬の念を抱く気持ちは、どんな人でも少なからず持っているのではないでしょうか。

 私たちは自然から多くの恩恵を受けています。この恩恵は、それなしでは生きていけないくらい、たいへん大きなものです。
 その一方で、ときに自然は、私たちに大きな不利益をもたらすこともあります。地震や津波、台風などの自然災害がそうです。
 自然物や自然現象は、科学が進歩したことで、そのものや現象のメカニズムについてはかなりの部分まで解明されています。しかし、どんなにあがいても、人間がこれらをコントロールすることは不可能です。
 人間は自然の前では無力な存在です。そして、そのことに気づいた人は、必ず自然を敬うようになります。このような考え方が、太古の昔からある自然崇拝の原点になっているように思います。

 ところが、ある時期から人間は、自然をあまり敬わなくなりました。正確にいうと、畏敬の念は持っているのかもしれませんが、人間の影響力が大きくなり、無思慮で行った行動が自然へ悪影響を及ぼす機会が増えたということなのかもしれません。
 たとえば、「開発」という名の下に周辺環境を自分たちの都合のいいようにつくり変えることは、ほとんど場合、自然破壊につながっています。あるいは、エネルギーを好き勝手に使った結果、地球の温暖化のような問題が起こり、自然の循環に大きな影響を与えるようになったとされています。

 人間が存在できるのは、地球上に人間が生きていける環境があるからです。この環境は、自然が営んでいる循環によってつくられています。そのことを無視して、目先の利益優先で行動することで自然の循環に悪影響を与えているとしたら、それは愚の骨頂です。これでは自分で自分の首を絞めているようなものです。

 神社をつくるときには、必ず「鎮守の森」をつくるのが慣わしになっています。鎮守の森というのは参道や拝所を囲んでいる森林ですが、そのようなものをつくるのは自然崇拝の考え方と深い関係があります。
 神道では、自然や自然現象に神性を見いだしています。つまり、自然や自然現象が神そのものなので、鎮守の森をつくることで訪れた人が神である自然を感じられ、あるいは神である自然と共に生きていることを強く感じられるようにしているのです。

  地球温暖化の問題が大きく取り上げられたことで、最近では環境問題に関心がある人が増えています。これは私たちにとって「良いこと」ですが、ベースにしっかりとした哲学のようなものがないと、一過性のブームのような動きにしかならない危険があります。
 本当に地球の自然を守っていくためには、畏敬の念を持って自然と真正面から向き合う自然崇拝のような考え方が求められているように思います。自然崇拝では「宗教的で抵抗がある」という人もいるかもしれないので、ここでは「自然との共生」という言葉に置き換えることにしましょう。

 人間は自然によって生かされています。自然なしには、人間は生きていくことができません。そして、そのことを理解している者は、どんなに些細なことでもいいから、まずは身近なところで営まれている自然の循環を守ったり、あるいは新たな循環をつくるための行動をすべきではないでしょうか。
 もちろん、このやり方では、地球の環境を一気に変えることはできません。しかし、地球全体というマクロを意識しつつも、自分の身近なミクロのところから変えていくというやり方をしないことには、結果として何も変わりません。
 仮にミクロの動きを地球上の様々な場所で起こすことができたら、地球全体の自然の循環にもいい影響を与えることができます。このような動きを現実のものにするためにも、「自然との共生」という考え方を社会の中にしっかり根付かせ、それを世界に広げていくことが大事ではないかと私は考えています。

池田 弘