撤退寸前からのV字回復。
どん底で見つめ直した、
自らの存在理由。
撤退寸前から売上4倍に。
2010年にNSGグループの商社である愛宕商事株式会社に中途入社。指定管理事業部にて行政から委託を受けた指定管理施設の様々な立ち上げプロジェクトや運営に関わる。その後、営業部環境事業課で環境商材の営業、事業開発部新規事業課の課長を経て、2021年に新電力新潟株式会社の代表取締役に就任。エネルギー危機からのV字回復に成功する。
やりたいことがないままに、28歳でNSGグループの門をたたく。
新潟生まれ、新潟育ち。おしゃれが好きで大学進学で上京してからは、原宿や渋谷、代官山などに足繁く通った。卒業後は会計に関する難関資格の取得を目指したが、勉強は難航。一旦諦めて就職するも、違和感を抱えながら過ごした。自分が何をしたいのかわからないまま28歳を迎えた2010年、すべてをリセットしようと新潟に戻り、知人の紹介でNSGグループと出会った。当時の自分には、学習塾のイメージしかなかったが、調べると幅広く事業を展開していることを知る。「ここならやりたいことが見つかるかもしれない」。そう感じて、NSGグループのなかでも、とりわけ事業領域が広い愛宕商事株式会社の中途採用に応募。無事、採用となった。最初の配属先は、県や市から委託を受けた施設の管理運営をする指定管理事業部だった。イベントの企画やコスト削減施策など、さまざまな案件を提案して実行する。新潟市アグリパークや新潟市マンガ・アニメ情報館の立ち上げプロジェクトにも関わった。現場ではさまざまな人々の意見や思惑が交錯する。一筋縄で進むことはまずない。とにかく足元の仕事を懸命にやること。ここで仕事に向き合うスタンスが確立した。4年ほど経ったある日、環境関連の事業へ異動を打診された。新しい部署でまだ人手も少なく、営業も含めてまずはすべてを少数精鋭で担当するという。チャンスが来た。「やります」と即答した。
環境関連の事業を担当。100件の新規開拓を達成
赴任早々トラブルが発生した。とある学校にLED照明を設置する案件で、前任者が必要な資材を仮発注のままで止めていたらしい。現場監督から「どうなってるんだ」と詰め寄られた。今から発注しても到底間に合わない。悩みに悩んだ末に、奇想天外な方法を思いつく。アダプターとランプという本来一対のものを別々に発注し、先に設置工事を行い後でランプを取り付けるという、まるでコロンブスの卵のようなアイデアだった。危機を乗り切ったことでお客様と現場スタッフの信頼を繋ぎ止めた。諦めなければ道は開ける、そう実感した瞬間だった。その後は、顧客ニーズに合わせて取り扱う商品の幅を広げて行く。新規営業にも力を入れ、NSGグループ外の取引先を3年の間に約100件拡大した。その後、新規事業の企画・実行を担う事業開発部に異動。課長に昇進して部下もできた。ある日、「そろそろ準備しておけ」と言われた。グループ会社の社長ポストが空くという。「思ったより早く来たな」。そう感じたのは、これまでに「にいがた未来塾」の幹事、次世代経営人材育成制度の一期生、事業創造大学院大学へ通学などを通して、自分なりに次のステージ、そして将来的には経営者のポジションを見据えていたから。2021年、新電力新潟の社長に就任することになった。
新電力新潟の社長に就任。予想を超えた事態が発生。
新電力新潟株式会社は、電力自由化に伴って生まれた「新電力」と呼ばれる小売電気事業者の一つで、法人を中心に電力を販売する。社長就任当時、業績は芳しくなく、営業活動は親会社である愛宕商事に依存した状態だった。まずは自力で法人顧客の新規獲得を目指し、日中は営業活動に全力を注いだ。愛宕商事在籍時に関係を築いていたお客様に連絡すると、「伊藤くんの話なら聞いてあげてもいいよ」と言ってくれる方が多くいて、ありがたかった。月々の電気使用量を教えてもらい、電気代をシミュレーションする。「これだけ下がる可能性があります」と提案すると、それならと切り替えてくれるお客様が増えていった。営業活動の一方、電力事業の知識を深めるために毎日のように図書館に通った。調べてもわからないことは、経済産業省や電力会社に電話で問い合わせた。夕方からは事務作業。請求書も自分で作成し、送付した。今では考えられないが、当時は家に帰るのがもどかしく、会社に寝袋を持ち込んだことも。そんな日々が1年ほど過ぎ、ようやく手応えを掴みかけていた頃、ロシアによるウクライナ侵攻に端を発したエネルギー危機が起こった。
事業撤退の危機を乗り越え、売上を4倍に拡大した。
電力の供給が不安定になり、仕入価格が急騰。会社として存続するには値上げが避けられない状況に陥った。悩んでいる暇はなく、一社一社お客様に説明して回った。厳しい言葉を受けながらも、値上げを受け入れてもらい、なんとか存続の道を繋いだ。しかし、状況はさらに悪化し、多くの新電力会社が供給停止に追い込まれた。倒産する会社さえある中で、社内では撤退も踏まえた議論が続く。このとき自社の存在理由を問い直した。「我々は何のために存在するのか?」。電力会社としてお客様に電力を供給できないのは、役割を果たせていないということ。何としても供給を続けると決意し、他社が動かないタイミングであえて営業をかける決断を下した。その後、電力供給は持ち直し、結果は吉と出た。顧客数は社長就任当初の30件から260件以上に拡大。3年目には売上が4倍、経常利益は15倍にまで成長した。新潟県内需要家割合は約94%に達し、今後は他県への営業も加速させていく。社内では新しいプランや中小企業のCO2排出量を可視化してサポートする新規事業の開発も進み、人材も着実に育ってきた。「我々は何のために存在するのか」。あの時の決断が今につながっている。