「知ること」と「身につけること」

AIをはじめとする技術の進歩によって、私たちは必要な情報へ瞬時にたどり着ける時代を迎えました。知りたいことがあれば、AIに問いかければ答えが返ってくる。知識を得ることそのものは、かつてないほど容易になっています。
考えてみれば、これまでテクノロジーは、人間の手や足の機能を拡張してきました。重いものを運び、遠くへ移動し、大量の情報を処理する。AIは、その延長線上で、知識へアクセスするという「脳の一部」を外部化したと言われています。
では、人が学ぶ意味はどこにあるのでしょうか。
知識そのものを得ることよりも、その知識をどう使い、どう判断し、どう生かすのか。その問いこそ、これからの教育にとって、ますます重要になっていくように思います。
もちろん、知識の価値が失われたわけではありません。むしろ、物事を判断するためには、幅広く体系的な知識が欠かせません。学校は、その土台を築き、それぞれの専門分野への入り口に立つための大切な学びの場です。
しかし、その知識も、経験と結び付かなければ、自分自身の判断として生かすことはできません。自ら考え、試し、迷い、ときには失敗しながら経験を積み重ねていく。その過程を経て初めて、知識は判断や行動につながる「生きた力」へと変わっていきます。
知識は、経験によって自分の力になる
知識は、判断の土台になります。そして経験を重ねることで、知識は自分自身の判断へと変わっていくのだと思います。社会に出れば、正解が一つだけ用意されている場面はほとんどありません。限られた時間や条件の中で考え、周囲の人と協力し、判断し、その結果を受け止めながら前へ進んでいく。その繰り返しの中で、人は成長していきます。
思い通りにいかなかったからこそ気付くことがある。異なる価値観を持つ人と向き合うことで、自分にはなかった視点を得られることもあります。経験とは、学んだ知識を実際に使い、自分の判断へと変えていくことです。

暮らしの中にも、学びがある
そんなことを考えていた折、新潟食料農業大学で取り組んでいる「自炊塾」を知りました。
これは同大学の比良松道一教授が、食を通して学生の主体的な学びを育もうと取り組まれている教育実践です。学生たちは、自ら献立を考え、食材を選び、調理し、仲間と食卓を囲み、後片付けまでを担います。一見すると、ごく当たり前の日常です。
例えば、同じ「醤油大さじ2」でも、地域によって味わいは変わります。参加学生はレシピをなぞるだけではなく、味見をし、五感で確かめながら、自分で火加減や味付けを調整します。さらに、食材の価格や産地をきっかけに、農業や環境、地域社会とのつながりにも目を向けていきます。
その一つひとつの場面には、選ぶこと、段取りを組むこと、人と協力することなど、多くの学びがあります。私が興味を持ったのは、料理そのものではなく、日々の暮らしを学びの場にしている点です。
もちろん、このような実践は自炊塾だけではありません。
企業と連携したプロジェクト、地域活動、研究、実習、ボランティアなど、それぞれの教育現場で多様な実践が行われています。NSGグループでは、大学や専門学校、高校をはじめ、それぞれが特色を生かした経験の機会づくりに取り組んでいます。
学ぶ分野も方法も異なります。しかし共通しているのは、知識と経験が結び付く機会をどう生み出すか。その問いは、教育全体に共通するテーマなのだと思います。
学びは、教室の外にも広がっている
私たちは、「学ぶ」と聞くと教室や講義を思い浮かべます。
もちろん、それらは教育の土台であり、欠かすことのできない存在です。
一方で、人は日々の暮らしの中でも学び続けています。
誰かと役割を分担すること。
限られた時間で工夫すること。
失敗を受け止め、もう一度挑戦すること。
地域や社会とのつながりを実感すること。
そうした経験の積み重ねもまた、人を育てる大切な学びです。教育とは、正解を見つけることだけではありません。自ら問いを持ち、その問いと向き合い続ける力を育むこと。そして、そのような経験に出会える環境を整えることも、教育の大切な役割なのではないでしょうか。

「知ること」を、「身につけること」へ
AIは、知識へたどり着くまでの時間を大きく変えました。しかし、人が自ら考え、迷い、人と協働し、経験を通して見識を深めていくことまでは、AIには代われません。
だからこそ、これからの時代は、「知ること」と同じくらい、「身につけること」の価値が大きくなるように思います。
教育とは何を育むものなのか。
社会が大きく変わる今だからこそ、その問いを持ち続けることが、求められているのかもしれません。 〆


